そこはポスドク、テクニシャンを含めて(註:undergraduate=学部生は殆どアメリカの研究室には居ない)たった5人でやっているにもかかわらず、毎年5-6本ぐらいはペーパーを出し、ほぼ全て一流紙。多いときは年に2本ネイチャーに出し,一本は表紙になったりしていた(#)。
しかも良く日本では見かける深夜も土日も働いて、朝はどちらかというと崩れ気味、みたいな重労働系の生活ではなく、普通に朝来て、「うーん今日は狂ったように仕事をしたな」とかいって七時半ぐらいに帰る。遅くても9時ぐらいかな。週末は飼っている細胞にえさをやりに来たり、続き上必要なミニマムなしごとをするぐらい。
日本でこのようなラボは僕が知りうる限り見たことも聞いたこともない。
一生背負っていくものがあるとしたら、その答えなんぞいらないから
ネタにだけしたいなって思った。
芸人になって、なんとやさしい世界だと思ったとき、そう思ったからだ。
ここでは悲劇が喜劇に変わる。
なんてやさしい世界なのだろうか。
排泄物のように垂れ流せば誰かが見てくれたりする。
ネタにすれば楽しんでくれるものがいる。
賛否があって当然だ。
でも少なくともここにいていいんだといわれているあいだは垂れ流しつづけたい。
誤解しないで欲しい。
私は不幸自慢したいわけじゃない。
だって幸せだから。
ほどほどに満たされず、
ほどほどに喜びが定期的にやってくる。
いい人生を送れていると思っている。
だから分からないことや、耳をふさいでなかったことにしたいこと、
全部笑いにできないかと思うだけなのだ。
とにかくとにかく
笑っているならばきっときっと大丈夫だ。
釣狐
一族の狐が次々と猟師にとらえられ、今や我が身もねらわれている老狐が、猟師の伯父である白蔵主という僧に化けて、猟師の家を訪れる。白蔵主は妖狐玉藻前の伝説を語り、狐の執念の恐ろしさを強調し、猟師に狐釣りのための罠をすてさせることに成功する。喜んだ白蔵主は鼻歌まじりに帰る途中、先刻猟師に捨てさせた罠を発見する。罠には大好物の若ねずみの油揚げが餌としてついている。少しちょっかいを出すが飛びついて食いたい衝動を抑え、化身の扮装を脱いで身軽になってから食おうとその場を立ち去る。(中入り)一方、伯父の白蔵主のようすに不審を覚えた猟師は、罠の餌につついたあとがあるのをみて狐の仕業とわかり、罠をかけ直して待機する。やがて正体を現した老狐がやってきて、餌をつつき回すうちに罠にかかるが、必死にはずして逃走する。二場から成り、前ジテは狐のぬいぐるみの上に僧衣をまとっている。後ジテはそれを脱いだ狐の姿で演じる。前ジテは登場してから中入りまで緊張感の連続で、上半身をかがめて極度に腰を入れ、終始、獣足という特殊な足の運びで演技をする。発声も高くとる。技術的、精神的に極度の集中力を要求され、大蔵流では極重習、和泉流では大習として重んじている。狂言師の修業の総仕上げの意味を持ち、これを演じることで一人前の狂言師となる重要な曲。
どうやら前の持ち主はこのAppsのコンテンツをそのままにしてドメインから去っていったようだ。管理アカウントがまだ残っていた時点から分かってはいたが、案の定、元のドメイン所有者が使っていたgmailアカウントやDocsやGoogleTalkのチャットのログまで全部残ってるじゃないかw
どうやら3つくらいのアカウントを作ってなにやら色々な用途に使ってたようだ。当然今では僕が管理アカウントを持っているので既存アカウントのパスワードもリセットできるのでメールとかも全部読めちゃう状態ぽ。
まぁ他人の情報を見て楽しむような趣味はないのでこんなこともあるんだなーと思いつつ、全アカウント&データを削除。新しく管理アカウントから作り直しましたとさ、ちゃんちゃん。
今回のことで感じたのは、自分がドメイン放棄するときはAppsのデータは全部削除してからにしような、ってことだな(^^;
電波ラジオ(同期メディア)とポッドキャスト(非同期メディア)は同じではないのでは?その新しいメディアを使いこなせているのか?ラジオという古典的な名前を持つからこそ、公共性が期待されているのではないか?それでは従来の規範に則ったモラルを求めればよいのか?教育者としていかなる発言をするべきなのか?ネット上で発言する意味と、対面する場で発言する意味の違いは何か?